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弟子大学3学期を終えて・・・

2010.05.14 12:51

じんゆきこ執事 조회 수:2580 추천:80

証 し
養育班からはじまり、弟子大学の3学期の訓練をすべて終えるのに、1年と4カ月かかっただろうか。
思い出せば、私の人生の中で、こんなに長い時間机に向かったことはなかったようだ。
学生時代は自分の部屋と机がありながらも、家で勉強したことはほとんどなかったように思う。
勉強にあまり興味もなかったし、勉強しなくてはならない意味もよくわからなかったのだ。
継続的に勉強する習慣のなかった私は、弟子大学での慣れない宿題をこなすために毎晩のようにリビングのソファで宿題をしながら眠る日々だった。
そして自分の部屋も机もない、ただの平凡な主婦だった私が新しいことに挑戦したときに、こんなにも数々の霊的障害が立ちはだかるとは想像もしなかったことだ。
途中、私は3度死んだ。正確に言えば、「私を十字架の上で殺してください。」と祈ったのだ。
あまりにも苦しいことが起こった。
私は自分なりに頑張っているのに、なぜ主は私をここまで苦しめられるのかと
主の愛と能力を疑い、理解できないこともあったように思う。
自分が原因の問題。家族が原因の問題。大切な友人が原因の問題。
人間としての理性も捨てて、全てを投げ出し、誰も知らないところに逃げれば楽に生きられるかもしれないと思ったこともあった。そこで人生をやり直したいような衝動に駆られることもあった。
けれど、神様は私を決して放さなかった。私に十字架の上で死ぬことを悟らせてくださったのだ。
この困難は無責任に私をいじめるために下さったのではなく私の霊の回復を約束したうえでくださったことであった。
とにかくすべての問題は、イエスキリストの十字架の完全な復活の勝利によって、すでに解決されていること。それを体験的に知る必要があったようだ。
たとえ、それには痛みが伴うとしても、一度徹底的に味わう必要があった。
私が抱えている問題の中には神様以外の偶像が潜んでいることもあったのは間違いない。
世界にたったひとり、まったく罪のないお方が、私の罪のために十字架で死なれた。
それなのに、私が「主よ、私を十字架の上でで殺してください。」と祈るのは、
私自信の苦しみから逃れて勝利したかっただけだ。
この訓練を通した答えはまだ見つかっていない。なぜなら私はまだまだ発展途中であり、死ぬまで完成されることがないからだ。しかし、この弟子訓練を通してひとつだけわかったことがある。
「私がいかに不完全な者か。」ということだ。
私が完全だから、よくできる者だから弟子としての資格をもらったわけではない。
自分の足りなさ、無力さに気がついたこと。
自分が霊的戦争の中にいて、サタンからの誘惑や騙しを常に受けているということ。
いつもみことばと祈りで武装して戦う覚悟を持って生きていく必要があること。
その認識は強烈に植え付けられた。そして学べば学ぶほど自分の能力のなさに気付いた。
しかしそれは悲観的なものではなく、むしろ神様に人生を預け、従順に生きていく決意表明をした喜びであった
そして、神様がどれだけ私という人間を明確に見てくださり、大きなご計画をたててくださっているかということ、私がその期待にこたえられた時にはいつも祝福というご褒美を下さっているのを感じた。
以前の私は、自分の存在理由など考えたこともなく、いてもいなくても大したことではない人間だと思っていた。本当に神様に対して失礼なことだ。

これから先、再生産できる神様の弟子になることを目標に掲げて生きていくときに、
この世での人生のあらゆることが主のみこころに沿って祝福されたものでない限り、私には何の進歩もないこと、逆に、どんな困難に見舞われようとも、それが私の人格を成熟させるために主がくださった訓練だとして、平和と感謝の心を持って受け入れるべきだということ、主のご計画に高慢に抵抗するような罪を犯してはならないこと、忍耐をもって成長し、主の祝福があれば幸福と繁栄の道を進めるということを忘れずに進みたい。
そしてこの空しい世を放棄することを徹底的に学び、私の心が真剣に、未来の天の国における命を意識して、また、その天の国の市民権を持っている心の平安を、ひとりでも多くの人に分け与える使役者として生きていきたい

使徒パウロは、私たち自身の理性と意志が命じるすべてを放棄するように言った。
まさに十字架の上で私が死ぬことだ。
また、主からいただいたすべての恵み・・・賜物や、物質的なもの、これらは、教会の共通の利益に適用させるという条件のもとに、信託財産として神様から預かったものである。
その恩恵は喜んで他の人たちと分かち合わなくてはならないものだろう。
私の中の鏡はイエスキリストの姿を映しているだろうか。「私を憎む人々を愛し」「危害を加える人に親切で報い」「私を呪う人々に祝福を与えて」いるだろうか。
教会の利益と私の生活や人生にプラスになる人ばかりを求めていないだろうか。
自分がイエス・キリストを模範として見習い、イエス・キリストの姿を担う人間になるべきだということを、いつも心に留めておきたい。
以前は、従順とは・・・ただ素直に導かれて従っていくものだと思っていた。
それはただ、「自分の力を抜いて信じるものについて行く」そんなイメージだった。
しかし、訓練を受けた今、従順とはよりよく生きるために、強い決意と使命と情熱をもって、主が私に課せられる十字架を喜んで背負うことだと思っている。
私が精霊の息吹で感動を受けて心を揺さぶられるとき、その瞬間瞬間において自分の人生を軌道修正し、自分に何ができるのか、授かった賜物を十分に生かしているだろうかと、一日一日を大切にしていきたいと思う。
最後に、あきらめずに私達を訓練してくださったモクサニムと、毎回4時間近く同時通訳で喋りっぱなしという、人間の限界を超えた仕えをしてくださったサモニムに心からお礼を申し上げます。。。

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