15年前のことです。私は病気で入院していました。どうにもならない気持ちでした。
なぜなら、本当に孤独だったからです。                                    たよりにしていた母は、入院直前に亡くなってしまいました。母は、余り世間から見ると、熱心とはいえないクリスチャンでした。母は、よくこんな風に言っていたものです。

「私はねえ、半分くらいしか神様を信じてはいないのよ。」
「でも・・・」、と私は問い正しました。
「おかあさん、じゃあ、何故洗礼を受けたの?」
「私の母も父も、クリスチャンだったからよ。」

私は、そんな母がとても好きでした。だって正直でしょう?本当に神様を信じているのかどうか、自分に問いただす人は、少ないと思います。 その頃の私は、聖書はよく読んではいましたが、母と教会に行くことは、ありませんでした。母が、無理をしてついててこなくてもいいのよ、と言うのです。そう、母の言うとおりでした。私は教会で神様の恵みを受けるのではなく、母が一人で教会に行くのがさびしいのではないかと思って、「私も教会に行きましょうか」と言っていたのです。母には全て、お見通しでした。母は、自分にもうそをつかず、他の人にもうそをつかせない、そんな人でした。今、考えてみると、母こそ「主の御心に適った人」だったと、私には思えます。

入院した病院は、ミッション系の病院でした。毎日、夕方になると讃美歌が流れてきます。最上階には、礼拝堂もありました。体調のいい時にこっそりのぞいてみました。静かでした。

「どうして、神様はおかあさんをお召しになってしまったのだろう・・・」
いいようのない思いがしました。どうして?何故?もっと、もっと長く生きていて欲しかった。心の底からそう思いました。

入院して3日が、たちました。夕食が済み、暗い気持ちで母の死をぼんやりと考えていました。すると看護婦さんがいらっしゃいました。手に新約聖書を持っていました。そしてこうおっしゃいました。「困ったときには必ず天から助けがありますよ」 
きっと、毎日暗い顔つきの私を気遣ってくださっていたのでしょう。聖書は私へのプレゼントでした。神様からのプレゼント・・・。私は聖書を手に取りました。少しずつ、少しずつ希望が湧いてきました。母はきっと天から私を見ていてくれる。

もしも天から御使いが来られるとしたら、この世界ではさまざまな姿をお取りになるでしょう。あの看護婦さんは、私にとっては本当に天からの御使いでした。

あれから15年が経ちました。私は洗礼を受け、天のお父様、イエス様 に今日生かされていることをいつも感謝しています。

本当にこれは恵みです。この恵みをどうやってお返しすればいいのでしょうか。



私には他の人にやさしくする事しかできません。

母がそうであったように・・・。