私がクリスチャンになったのは、19歳のときです。
 
それまで私は自分をとてもよい人間だと思っていました。人には迷惑をかけないし、勉強できるし、少林寺拳法を習っていて強くて、正義の味方であるし。人生は順調そのもの、すべて自分の思い通りになると思っていました。そんな私にとって宗教は必要ありませんでした。
 
大学に入り状況は一変。楽しいはずの大学生活が、友人達のことで怒りに燃える日々になってしまいました。私は要領の悪い人間で、寝る暇、遊ぶ暇を惜しんで勉強していました。完璧なノートを作っていました。それは、たとえ講義に出なくてもノートさえ暗記すれば試験は大丈夫というノートでした。ノートを毎晩のように借りに来る人もいました。試験前にまとめてコピーする人もいました。試験本番では、たとえ私が100点満点を取っても、彼らが81点取れば評価は同じ「優」でした。悔しいことに時には負けてしまうこともありました。彼らがドライブに行ったり、スキーに行ったり、テレビを見てくつろいだり、酒をのんで楽しんだり、熟睡している間、私は眠らず、遊ばず努力しました。それなのに評価が同じ。なんで?許せませんでした。段々怒りがこみ上げてきました。彼らは医学生なのになぜ自分で勉強しようとしないのか。
くそー。ふざけんじゃねえぞ、と心が憎しみで一杯になりました。彼らの前で切れないようこらえるのが難しかったのです。彼らのいないところでは鍛えたこぶしで壁を思いっきり血が出るほどたたいたりしました。怒りの感情を自分で制することができなくなりました。心が荒れて、バイクの運転で人に迷惑をかけるようになりました。自分で自分をコントロールできなくなりました。よい人間だったのに、おかしい。こんなはずではない。なんとかしなくてはと焦りました。
 
そんな時、兄が一足先にクリスチャンになりました。解決をまず聖書に求めました。 聖書の中の、兄が赤線を引いた部分を中心に読んで、まず分かったこと。神は人の外見より内側を見る。神の目には、人が怒りを抱けば殺人罪。情欲を持って女性を見れば強姦罪。ちょっとしたうそでも大きな罪。と分かりました。
 おお、神の基準は高いなあ。でも私は良い人間。罪人なんかではありません。気合いを込めて自分で心をきれいにしようと再びがんばりました。自分には出来る、そう信じていました。しかし、がんばればがんばるほど自分を制することができないのが分かりました。神様、私はまじめに勉強しているだけです。なんで私の方が苦しまなければならないのですか。悪いのは遊びほうけているあいつらです。私は悪くありません。しかし現実は、言葉も行いも、心に抱く感情においても、自分は罪人であることを認めざるをえませんでした。その時は生きるのが辛く、死にたいとも思いました。
 
最後の手段で、希望を求めて教会に行ってみました。そこで、教会の人々の顔が、罪から解放されて晴れ晴れとしているのを見て、自分もああなれるなら救われたいと思うようになりました。しかし、2000年も昔にイエス・キリストが全ての人の身代わりになって十字架の上で死んだ。それが自分とどう関係があるのかピンときませんでした。
 
聖書を読み進めて、2つのことが分かりました。
 一つ目は、神は、私たちに期限付きで、ある選択を迫っているということ。
どういう選択かというと、イエスをとるか、それともその対抗勢力である悪魔をとるか、2つに1つの選択。期限は、自分が死ぬ前か、イエス・キリストが再び地上にやって来る前。それまでに選択しなければなりません。将来タイムマシンが完成したら、イエス様が生き返ったかどうかはっきりしますが、その前にこれら2つの期限が来たら正直困ります。私はイエスを取りたいと思いました。
 二つ目は、聖書の神は必ず約束を守る神であるということ。聖書は、様々なことが予告され実現されてきたという実例集でもあると知りました。なんでわざわざ、予告と実現という形を取るかというと、理由は聖書にはっきりと書いてあります。そうすることによって「人々が神がいることを認め、信じるようになる為」なのです。イエス・キリストの誕生も生き方も十字架にかかって死ぬことも、そして死んで3日目に生き返ることも予告され、実現しました。そんなばかな、と思いたいけど、その事件を目撃した複数の人々が証言しているのです。「嘘じゃない。俺達は見たんだ。信じてくれ」と迫害や投獄、時には死を覚悟で主張しつづけたのです。そのことが聖書に書かれています。その目撃者達の人柄が信用されたから聖書全体が信用された。聖書が信用されたから、「聖書を書き換えてはいけない」と言う神の命令が守られ、代々受け継がれてきたのです。そして聖書は書かれた当時とほとんど変わるところのない内容のまま現代まで残っているのです。そして全世界にたくさんの教会ができ、一応統計上は世界人口の三分の一がキリスト教徒になっているのではないでしょうか。
 
おお、聖書は科学にも矛盾しない、歴史にも矛盾しない。それどころか歴史が神の手の中で動いている。しかも将来イエス様は再びこの地上にやってくると力強く約束しているのです。これは、聖書の神様は本当にいるわ、と思いました。聖書の神がいるなら、聖書はその主張通り神の言葉であり、書かれてあることにうそ偽りはない、と思いました。 神はいて、聖書の言葉が本当なら、2000年前にイエス・キリストが十字架に張り付けられた理由もまさに、聖書に書いてあるとおりなのです。つまり本来私が受けるはずだった刑罰をイエス様が身代わりになって受けて死ぬためだったのです。
 
私が、イエス様、信じますと祈ると同時に、体中に電気が走り、「子よ、安心しなさい。あなたの罪は許された。」という声を聞きました。映画「パッション」で、イエス様が受けたむち打ち刑と十字架刑がこんなにむごいものであったのかと思い知りましたが、逃げようと思えば何度でもチャンスはあったのに、自ら進んでそのむごたらしい刑を受けられた。こんな罪に汚れた私を救う為、そこまでしてくれるのか。そんなにまで私を愛してくれるのかと感動しました。こうしてイエス様は王様、ご主人様、私の命の恩人になりました。
 
クリスチャンになって19年、回り道だらけの人生の中でいくつもの挫折と鬱を経験しました。でもはっきり言えるのは、それらのうち何一つ無駄なことはなかった。すべて益に変えられている。この人生を歩んできてよかった。他の人生でなくて良かった。ということです。