私は今高校2年生です。私には、イエス様との劇的な「出会い」というものがなく、生まれて物心がつくと、同時に神様の事も知っている者でした。母親がクリスチャンだったからです。
けれども、小、中学校の頃は、優しい子ではなく、口喧嘩では負けた事のない、口達者な者で、一言われれば、千倍にして返していました。悔い改める事の多い者でした。
中3の頃に、精神的に倒れた時期がありました。誰とも話したくない状況が続いていた時、ふと、私には神様がいるのに、なぜ平安が無いのだろう。
もしかしたら、私は、今まで神様の事を、親のように、自分の保護者だと勘違いしていたのかも知れない。そして、イエス・キリストの十字架を、自分の事として考えた事があるだろうか、と思った時、初めて神様に面と向かって、祈れるようになったと思います。
それから、私は毎日、「今、心から本当にあなたを必要としています。どうか、あなたがわかりやすく教えて下さい。」と祈りました。

ある日、本を読んでいたら、詩篇の「夜もすがら、泣き悲しんでも、朝と共に喜びが来る」という言葉が目に入った時、強烈に迫り来て、ああ!!そうか!!これが、神様なんだ!!と、わかりました。

夜が来て、朝が来る、その繰り返しのごとく、1日、1日と絶えず神様は与えて下さる。と、同時に、私達に想像出来ないほどの、素晴らしい恵み、喜びも用意して下さっている。
悲しい事があっても、次の日は、神様の喜びを用意して下さっている事が、わかりました。

私は、この時初めて神様に、心から感謝しました。又、こんな私を赦し、その罪ゆえに死んで下さった、イエス・キリストの愛をひしひしと受け止めました。私は、この日を「喜びの日」と名づけています。

私は、罪の苦しみを知る前に、神様の愛を知っていたので、宙ブラリンな状態でした。
その「喜びの日」以来、それまでの自分と、はっきり決別したいと思い、祈りました。すると、そんな時に、バプテスマの話があり、祈りの答えだと、私は神様に感謝しました。

そのバプテスマの意味が、古い自分が、イエス・キリストと共に死んで葬られ、イエス様と共によみがえって、これから生涯、イエスと共に、新しい命に生きるというものだったからです。
1999年、3/28、私は心からの感謝の内に、バプテスマを受ける事が出来ました。

私には、もう一つ、致命的な事がありました。
罪というのは、観念的には知っていましたが、罪の苦しみ、罪のもだえというものを、経験した事がありません。
それが、ついこの間、とても言えないほどの、大きな罪を犯しました。その時初めて、罪の苦しみ、もだえを味わい、そして、何千倍も上回る、神様の愛を受け取ったのです。
その時、神様の私に与えて下さったメッセージが、ヨハネ21:15ー17でした。
イエス様がペテロに聞かれた3つの愛の意味、そして、その問に対するペテロの答えた、愛の意味が教えられました。そこに、神様の愛と、イエス様の十字架を見る事が出来ました。
私には、イエス様の十字架という、測り知れないほどの、恵み、愛を頂いている事がわかりました。罪の苦しみ、もだえがあって、その十字架を見上げた時に、神様の愛がどんなに重く、恵みがどんなに深いかを、知るのだとわかりました。

この教会の一員となる事が出来て嬉しいです。
三浦綾子さんの本にある「ちいろば」の言葉のように、私も「ちいろば」でありたいと思います。
マタイ21:2の事で、小さなろばですが、こんな私でも、神様がお入用なら、どんな所へでも走って行こうと思っています。
イエス様が、私のために用意して下さった道を、神様が与えて下さった光の中を、歩いて行きたいです。