1.        養育受ける前の姿。
養育システムが始まって、実際に養育を受けている人の話をよく聞いていました。
「宿題が多い」「遅れると怒られる」「忘れると走らされる」「毎日聖書を読んでお祈りするノルマがある」などなど、すべてマイナスのイメージを持っていました。
他人事のように、「みんな大変だなあ・・・」と、私がメンバーに入れるはずもなく、入る必要もないように思っていました。「だって、小さな子どもがいるから仕方がない。」
「だって、言葉がわからないから仕方がない。」と。
誘われたこともありましたが、私には縁がないもののように感じていました。
自分なりの信仰生活を送っていましたし、信仰の成長ということ自体があまり実感を持てないものでした。どんどん成長してのようなところに行ってしまった人もいましたが、私とは別々のステージ(段階)にいるんだなと思い、うらやましいような、眩しいような思いもありましたが、「まあ、仕方がない。私は私。マイペースで行けばいいや。」とあきらめていた感もありました。

2.        養育を受けることでもらった恵み、変化と信仰の告白。
はじめは自分がこの席にいていいのか?と思ったほどでした。ただでさえ疲れているサモニムをまた働かせて、申し訳ない気持ちのほうが大きかったです。
けれど、毎回確実に精霊様の力が注がれるのを感じました。
今までは受け身の信仰でした。「与えられたらありがたくいただく。」「多くは望まない。」
「与えていただけそうなものだけをお願いする。」という感じだったのです。
けれど、霊的に成長したいと強く願い、聖書通読、お祈りと日々実践していく中で変化がありました。「信仰の家庭としてしっかりと立ち、まだ神様を知らない周りの人たちに伝えていこう。」という、積極的な攻めの考えが生まれたのです。 自分のやりたいこと、進みたこが見えました。
それまでは従順に信仰していきたいけれど、自分の考えややり方が正しいのかもわかりませんでしたし、基礎的な知識もないまま過ごしてきて、いまさら質問するのも恥ずかしいようなこともありました。それが、救いの確信という、信仰の必須条件を付きつけられ考えさせられた時、「私は確かに救われて赦されるのだ。」という強い意志が芽生えました。
また、賜物発見セミナーで、自分が授かった賜物を知ったことによって、自信を持ち、より得意分野に力を入れることができるようになりました。
お祈りも、自分や家族のことばかりでなく、周りの人に対する物のほうが圧倒的に多くなっていきました。

3.        養育を受けて与えられたお祈りの答え
途中、本当に苦しい時期がありました。夫の仕事のこと、経済状態、娘のことは特につらかったです。またうちの家族以外におきた苦難を知るたびにお祈りも苦しくて、自分が誰のために、何のために生きているのかと考えていやになることもありました。
それまでなら、すぐに神様に対して反抗的な態度をとってすねたりいじけたりするのが常でした。けれど祈りへの応えの確信、導きと勝利の確信を学んだ後では、「私の成長を脅威に感じた悪魔が妨害しているに違いない。それだけ私は成長しているということだ。この困難は私が人間的に成熟するためには必要なことであって、必ず越えられるから神様が与えられたのだ。」と、戦いの前の武者震いのようなものさえ感じました。あきらめないこと、投げ出さないこと、特にこの二つは私に与えられた答えであり、これからの課題でもあります。

4.        養育が自分にくれた意味とその後の人生の決断が入ること。
はじめに入学を敬遠していたように、私には消極的な部分が多々ありました。
できることなら避けて通りたいものもありました。
けれど、時間に追われながらも忠実にこなしていくべきものは、ひとつひとつはあまりにも小さなものですが、やがて実を結べばすべてが神様の栄光につながるものだと学びました。
その小さなことさえできていなかった私が、この養育を通して成長の喜びをかみしめました。学生時代もろくに勉強した記憶がないのに、自分が神様に栄光を捧げるために努力できたことがとても嬉しいです。
一つの段階を確実に上がったと思います。天国への階段を一歩上がったと思います。
まだまだ道のりは長いですが、いただいた賜物を最大限に生かして、神様から期待されることを遠慮せずに、自分に利益がなくても、できなくても、ただ従順にみ声に耳を傾けて生きていきたいと思います。

養育を受けられて、本当によかったです。
ありがとうございました。
                   養育班第4期  陳 有希子