人々は、多かれ少なかれ、心の奥底にある「死の恐れ」に気づいています。
気づかぬふりをしたり、ごまかしたりしながら・・


それは、ふとした折りに、見え隠れしたり・・、
あるいは、日常に流されて、心の戸棚の奥の方に、しっかりと、しまわれたままであったり・・

いつか、必ず、その帳じりをはっきりつける時が、くるんだろうな、と感じながら・・

私が、「死の恐れ」を意識し出したのは、中学生の頃でした。


漠然とした「恐れ」が、ほとんど「恐怖」となりました。
ぼんやりしたものが、段々、はっきりとした形をとって、見えてくるように。


特に、夜でした。夜、一人でいたり、夜空を見る時がそうでした。
ある思いが、必ず浮かび上がるのでした。
それは、肉体はすでに無く、つまり「死んで」いるわけです。が、自分を意識する、自分がそこに、い続ける。


   底知れず、真っ暗な、暗闇の中で、自分は存在し続け、意識し続ける。
永遠に、その意識が無くならない。家族はいない、友人はいない、誰もいない。真っ暗な宇宙空間の中で、永遠に一人っきりで。


気が狂いそうな、まさしく「恐怖」、そのものでした。
自分にできる事は、考えまいとすること、気を紛らわせること、ただそれだけでした。
早く、朝がくることをひたすら願い、親がいて、学校があって・・、
何の変哲もない日常が、なんと「救い」に思えたことでしょうか。

高校生になって、何気なく、教会へ行きました。
クリスチャンの友に、特別な集会があるからと、誘われて。初めて、足を踏み入れた教会でした。
そこで、生まれて初めて、聖書の言葉を聞きました。「信じたい」と思い、その日、信じました。

ある日、突然、気づきました。死の恐怖が、全く無くなっていることを。そういう事すら、忘れて、気づかずにいたことを。

「安らぎ」が、心に、はっきりとありました。大海のような平安でした。あれほどの、気の狂いそうな恐怖の代わりに。

キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

あなたがたは、羊にようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
Ⅰペテロ2:24


あれほどの恐怖がどうして?なぜ?無くなった?不思議でなりませんでしたが。
たましいの牧者のもとに帰ったようです。
あれは、直感的に、潜在的に、罪をもったままなる滅びを、感じ取っていたのでは、と納得しました。
真の救いが!ここに!

これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、

一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を
解放してくださるためでした。