私が創造主であり、救い主である神さまについてはじめて聞いたのは、1996年のことでした。
私が高校留学のために、オレゴン州ポートランドに1年間滞在していたときのことでした。私をアメリカに呼び寄せてくれたホストファミリーが、熱心なクリスチャンだったのです。当時の私にとって、神様は何か架空のもので、キリスト教は宗教の一つでしかありませんでした。求める気持ちもなく、教会へ行っても友達もあまりできず、居心地が悪いだけでした。教会で大人たちが涙を流して歌をうたっている様子や、説教を聞きながら涙を流している様子をみて、訳のわからない私は、心の中で彼らを「宗教に頼る弱い人たち」なんだと低くみていました。「私はクリスチャンではありません。」と宣言することに、自分は自立していて、宗教なしでもやっていけてます、間に合ってます的な誇らしさも感じていました。第一コリント2:14には、「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」とありますが、私はこのみことばにある「生まれながらの人間」そのものだったと思います。
 
そんな私でしたが、神様は見捨てず、辛抱強く私を私に必要なだけの時間をかけて、一歩一歩ご自身を明らかにしてくださいました。通っていたクリスチャンスクールの先生たちとの出会いを通して、私ははばかることなく思う存分自分がキリスト教の思想について「うさんくさい」と思うところをぶつけることが出来たのです。進化論を信じないなんて勉強が足りないのもいいとこだ、高校の歴史の教科書にだって載っているじゃないか、ということや、聖書が全部本当だなんてそんなばかなこと、どうして信じられるのか、など、今までクリスチャンに遠慮していて聞けなかったことも、全部ぶつけました。そして、そのやりとりの中で、私はその先生の返ってくる答えを通して、内容は忘れましたが、クリスチャンがただ盲目に、「嘘でもなんでもとにかく信じればいい」と思っているのではなく、本気で神がおられるということを信じていること、また十分に知性を働かせた上でも信頼できるものを信じているんだ、ということに気づかされたのを覚えています。また、聖書を土台にした一貫性のある価値観を前に、私の方こそが一貫性がなく、その場しのぎの価値観で生きている人間なんだ、ということを認めざるを得なかったのです。また平行して行っていた創世記(旧約聖書の第一巻目の書)の学びを通して、創造主なる神を認めること以外に、この世界や、いのちの説明がつかないことを、受け入れざるを得ませんでした。創世記を受け入れた私にとって、残りの65巻の聖書のことばが真実であることを受け入れることに時間はかかりませんでした。
 
伝道されつづけて9ヶ月目、やっとここにきて創造主である神の存在と、聖書への信頼が芽生えた私でしたが、実際に自分がクリスチャンになることには抵抗がありました。それは、私にとってこの天地万物の支配者であられる神が、私が生きていく毎日の生活の中に何の関わりがあるのだろう、いや、あまりあってほしくない、という思いがあったからでした。できればこのままでいたい、家族や周囲の友達と一人違う方向に進んでいきたくないという思いがあったからかもしれません。しかしそれは、私がその当時、救い主なる神、イエス・キリストが私の罪の身代わりとなって十字架にかかられたという事実に出会っていなかったからでした。
今はアメリカにいるし、こんな人たちに囲まれているから洗脳されているのかもしれない、という思いもありました。疑い、不安、でも神様という存在が私の中で「無視することのできない」ものになっていました。そんなある日、ちょくちょく通っていた日本人教会のメッセージの中で、イエス・キリストの話がされました。神様が天と地をつくられたこと、本来神様とともに歩むべき存在として人がつくられたのに、神様を無視して自分勝手な方向にあゆむわたしたちのあゆみを聖書では罪(的外れ)と呼ぶこと。しかし神様はそんなわたしたちをも愛しぬき、憐れまれ、どこまでも追いかけ、そのままでは滅ぶべき私たちを放ってはおかず、神の愛するひとり子であるイエス・キリストをこの世につかわしたこと。罪なきイエス・キリストは私たちの罪の身代わりとなって十字架で苦しまれたこと、またいのちを捨てられたこと、しかし死んで3日目によみがえられ、今もいきておられ、すべてをすべ治め、誰でもその名前を信じる人たちに永遠のいのちを約束してくださること。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものが、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」

その日、その礼拝のなかで、イエスさまは、「わたしだよ。恐れることはありません。安心していきなさい。」と語りかけてくれました。それまで何回もきっと聞いていたはずのイエス様の話。でも、そのとき私は初めて心が深い平安と喜びにみたされて、涙がとまりませんでした。私がこの1年間、疑いながら格闘してきた神様はこんな方だったのか。それまで何度も教会の人たちの涙を「変な人たち」だなーと思って傍観してきた私でしたが、このとき、彼らの涙の訳がわかり、神の家族に一つとされたことを実感しました。メッセージの後の招きの時に友達につれられて前に出ると、牧師先生に「君はイエス様を信じるかい?」と聞かれ、うなずきました。こんなに頑なな私でしたが、聖霊様に触れられると一瞬にして変えられました。それから、日本に帰り、私が信じた神様、イエス様がどんな方なのかを、聖書のみことばを通して改めて知ったとき、なんともいえない喜びと平安をいただきました。私の魂が、本来属するところに帰ったことを喜んでいることを感じました。
最後に、私が信仰に導かれるまでたどった経緯にぴったりのみことばをシェアします。テモテへの手紙第一、1:13節から
『私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。
私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。』