真のキリスト教生活を読んで
2009.07.14 02:32
従順とは・・・ただ素直に導かれて従っていくものだと思っていました。
それはただ、「自分の力を抜いて信じるものについて行く」そんなイメージを持っていました。
けれどわかりやすく言いかえれば「イエス・キリストを模範として見習う」ということのほうが、近かったようです。
私自身をイエス・キリストの義に捧げなければ、万物創生主に背くばかりでなく
私の救い主であるイエス・キリストを公然と捨てることになるからです。
それには、私が持つ知識を進化させ続けなくてはならないでしょう。
なぜなら、それこそ救いへの道だからです。
地道な努力を続け、絶えず前進できるように最大限の努力を惜しまない生活。
日々達成できるものは、本当に小さな物でも失望してはなりません。
いくら私の力が足りないとは言っても、今日が昨日より優っているなら、この努力は
無駄になってはいないからです。
自分自身を神様に喜ばれるような、栄光を捧げられる聖なる生ける供え物として差し出せればどんなにいいでしょう。それは、信じる者としての義務でもあり、至上の喜びでもあり、真の礼拝に値するはずです。
自分自身を忘れるために、利己的なものを確実に無視すれば、その瞬間にのみ
私たちは自分の注意をひたすら神様と、その戒めに振り分けることができるようになります。
それは究極の「自己否定」だとも言えます。
私の感情を主に明け渡すべきでしょう。
富と誉れを渇望し、権力、財産に執着したり、虚栄と空虚の誇示に尽きるような無価値なものを求めるのは凄まじい情熱と、無限の欲望のなせる技です。
また、私たちは、貧困、無名、労苦を恐れて嫌悪し、あらゆる手段を用いて回避しようとしています。
自分自身の精神に従うあまりに、落ち着きがなく、失敗ばかり繰り返して、さらに罠にはまる、この悪循環から抜け出せなくなります。
自身の勤勉、努力、才能、人々の好意によって成功しているように感じることもあるでしょうが、あらゆることが神の祝福によるもので、祝福して繁栄させて下さらない限り、私たちには何の進歩もないこと、逆に、どんな逆境に見舞われようとも、それが主によって予定されていることだとして、平和と感謝の念を持って受け入れ、高慢に抵抗を試みたりする罪を犯してはならないこと、忍耐をもって成長し、主の祝福があれば幸福と繁栄の道を進めるということを胸に刻みたいです。
また、時に神は、傲慢で愚かな民を抑制するために「経験」という訓練を課されることがあります。屈辱、貧困、大切な人の喪失、病気、災難を持って私たちを苦しめます。
私たちはそれに耐えきれずにそれらの下に葬られ、そこで謙虚にさせられてそのような苦難の重荷の下でも立ち上がらせて下さる神の力を呼び求めるようになります。
私たちに従順で謙遜な心が持てるように・・・それが十字架の下で生きていく理由でしょう。
暴れ馬ははじめに何もしないで甘やかしておくと手もつけられなくなり、扱いきれず、以前は服従していたはずの手綱をも無視するようになると言います。
私たちが、富を得ても、栄誉を受けても、繁栄と健康に恵まれても、傲慢にならないように抑制し征服し、服従させるために十字架を用いられるのです。
そう考えれば、私たちがいかに移ろいやすく不確かなものばかりを渇望しているのか、自分の所有物に頼っているのかを思い知らされます。
病気や危険によって死ぬ人間にもたらされるすべての物は、如何に不安定で移ろいやすいものか、頼りないかをはっきりと示すために、時には配偶者の欠点によって苦しめたり、わがままな子どもを通してへりくだらせたり、子どもの不足や喪失によって悩ませたりなさいます。
私たちは、この世のものが、この生が、不安と難儀と、悲惨に満ち、如何なる観点からみても、真に幸福ではないことを学び、不確かで、移ろいやすく、虚しいこの世には何一つ期待できるものがないと学び、天の国の栄冠を目指すべきです。
この空しい世を放棄することを徹底的にに学ばなければ、私たちの心が真剣に未来の天の国における生を意識することはできないのでしょう。
使徒パウロは、真の礼拝のためには二つの主要な障害が排除されなくてはならないと断言しました。
「私たちは生まれつき激しく陥りがちな不敬虔さを持っていること」と「私たちを圧倒しがちな、この世俗的な欲望」です。
また、私たち自身の理性と意志が命じるすべてを放棄するように言っています。
私が主から享受したすべての恩恵・・・賜物や、物質的なもの、これらは、教会の共通の利益に適用させるという条件のもとに、信託財産として神様から寄託されたものであります。
その恩恵は喜んで他の人たちと分かち合わなくてはならないものです。
このところ、施しとは無条件に与えるのが正しいことなのか、真理はどこにあるのか分からずに悩んでいました。
けれど、この部分を読んで心の靄が晴れました。
「助けを求めている人に対して、求めを拒絶する理由はない。」
彼が見知らぬ人だったとしたら・・・それでも主は彼にご自身の刻印を押し家族の一員とされる。
彼が卑しく、価値のない人だったとしたら・・・それでも主は彼をご自身の姿を持って光にかえられるだろう。
彼を世話する義務がひとつもないとしたら・・・それでも主はあたかも彼をご自身の代理人のようにされるので、主から限りない恩恵を受けている以上、彼に対して義務を負うことになる。
彼が私に危害をくわえ、侮辱して怒らせたために、少しの親切を受けるに値せず、むしろその逆だったとしたら・・・その場合でさえ、私が愛情を持って暖かく彼を迎える必要はなく、好意を示さなくてよいという理由はどこにもない。
困難なばかりでなく、人間の本性にまったく逆らうものを獲得できる唯一の道は
「私を憎む人々を愛し」「危害を加える人に親切で報い」「呪う人々に祝福を与える」ことですから、自分がイエスキリストの姿を担う人間になるべきだということを、いつも心に留めておきたいです。
慈善を施すときには、笑みを浮かべ、上機嫌で上品な言葉さえ口にして表現したいです。
小言を言わず、自惚れず、傲慢な言葉を吐かず、軽蔑の態度を見せずに施しをしたいです。
心からの同情で、尊大と非難を追放し、軽蔑したり支配したりすることをやめなくては。
自分の体の一部分が病んで、全身が健康を回復しようと努める時、病んでいる部分を嫌悪するでしょうか?
その部分を邪険にしたり義務を課したりするでしょうか?
その部分は全面的な援助を必要としているだけなのですから。
従順とは、よりよく生きるために、強い決意をもって、主が私に課せられる十字架を喜んで背負うことだと思いました。
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